兄はしっかりもので、良守がものごころのついたころにはもう父も祖父も正守のことを子供とは扱っていなかった。だから良守は正守が泣きべそをかいたりおもらしをしたりという姿を想像したことがなかった。それと同じくらい、正守が敵に追い詰められる姿やあまつさえ膝を折る姿なんて、いつか自分が負かしてやると思いこそすれ夢にも思ったことはなかった。
大丈夫なのか、生きているのか、怪我の具合は。
だから、そういう類の心配を兄にしたのはこれが初めてだった。
明けてゆく空を高くたかくとぶ蜈蚣の背中で、良守はじぶんの膝にのせた兄の顔を見下ろした。
こざっぱりと整った正守の顔には擦過傷がいくつもあった。羽織はあちこちやぶれているし、染み出した血が固まりはじめてごわごわした。黒いからわかりづらいがずいぶん出血したのだろう
、兄の顔色はお世辞にも良いとはいえなかった。
「いてえ」
たっぷり脳みそのつまった正守の頭は重たい。良守は正守の首を寝違えないようにと気をつけながら膝をくずした。すこし足の先が痺れているが、死んだような顔で眠る正守の頭をそこらに転がす気にはなれなかった。いつもなら頼まれたってごめんだが、きょうばかりは正守の身体を大切にあつかいたかった。
兄貴。ばか兄貴。
一晩のうちに何度呼んだか。
「電話したらさっさと出ろ。ばか兄貴」
正守の頭を乗せた膝がそこだけじんわりとあたたかかった。坊主だからすぐ体温が伝わってくるのだろう。
「何度もなんだよ、じゃねえ、ばかばか兄貴」
良守の目からあふれたそれは頬をつたい顎からおち、正守の坊主頭をぬらした。次のしずくは三日月のかたちの傷におちた。そのつぎのは閉じたまぶたに。
困ったことに涙は止まりそうになかった。良守は正守の襟元から布切れを失敬し、顔をうずめた。血の匂いがして余計に涙が出た。
正守はやっとやっと帰ってきた。
良守は声も出せずに泣いていた。
2007/05/09
そのまんまです、165話直後を捏造。